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『あひるの家の冒険物語』 第5話  夢を馳せる

1978年12月、プロジェクト・イシが発足しました。
八百屋の次に向けて考え、行動するプロジェクトをすすめていくテーブルのはじまりです。
国立の西にあひるの家の店舗を開いてから3ヶ月たらずの頃でした。その年の初夏、八百屋の集まりで流通センターJAC代表の荒田君から出された1枚のペーパーがきっかけでした。
「俺達1人1人の八百屋への関わりは多様だ。俺達は決して売ったり運んだりすることで充たされていない。俺達のもつ多様な目的や価値観を、可能性として結んでいけるテーブルが必要なのではないか?そんなテーブルを設けることで、個人の限界を突き破る新しい生き方をつくりあげることができるのではないか?」
「そんな自主運営、自営自立のテーブルをプロジェクト・イシ(ヤヒ語で“もっとも人間的な”という意味)と名付けたい」
集まりの最中に出た、農家が山林を売ってもいいと言っているという話しも含めてあひるスタッフ4人に報告すると、仁君とむっちゃんは「自分たちの農場を持つんだ!いいなぁ、やりたいねぇ」と目を輝かせ、藤井さんは「ステキ!ステキ!」とはしゃぎ、武重君は「写真とってこよう」と大喜び。
「エーッ、みんないなくなっちゃうじゃねえかよ。誰があひるやるんだよ」と、暗澹たる気持ちになってしまいました。

初めての年末商戦は、注文表をつくったり集計したり、店頭に「大売り出し」の旗をたてたり、初めてづくしのことばかりで活気にあふれていました。
「会社のお客さんにお歳暮として届けたい」とみかんを20ケース注文してくれた人や、「調味料をセットにして送りたいんだけど」と言われ、各々の家にあった空箱や包装紙を持ってきて、「高島屋の包装紙だけどいいですか。あひるマークのスタンプおしておきますけど」と対応してみたり、「商売してるなぁ」と実感する5日間でした。
1人3万円の大入り袋を手に、31日夕刻シャッターを閉め、「また来年。よいお年を」と声を掛け合って帰っていく時、「あゝ1年が終った。本当に最後の最後までよく働いたよなぁ」としみじみ思ったものでした。

年が明け1979年、プロジェクト・イシは動きはじめたのです。
主なプロジェクトは5つありました。
① 流通企画プロジェクト(JACと販売グループで農家への作付や商品企画)
② 農事プロジェクト(自営農場の開設と運営)
③ 帰農プロジェクト(百姓志願者へのサポート)
④ 広報プロジェクト(新グループ募集・メディア対応・ビデオ映画製作)
⑤ ファクトリープロジェクト(店、車の改装、改造・お客さんの家のリフォーム)
プロジェクト・イシの運営費は10数グループからの任意の会費制で月80万円位、担い方も任意の関わり方だった。
「農事」と「広報」が活動を開始したのです。茨城県玉造町にある山林1町3反歩を購入したのです。
山林の伐採・開墾・整地、そして家屋・鶏舎の建設のため毎週末、八百屋のトラックに乗り込んで若者たちが向かいました。作業がすむと飯を作り、たき火を囲んで野宿です。
あひるの家からも仁君、むっちゃんをはじめ、店に立ち寄っていた旅人たちが茨城に向っていきました。
農場スタッフとして長本兄弟商会(西荻窪)、野勘草(国分寺)、そしてあひるの家から仁君とむっちゃんの三世帯が移住していきました。畑と養鶏と椎茸栽培で生計をたてていく計画です。
農場開設費用は1650万円(土地)+800万円(家屋建設・農業資材)かかり、10年返済で月々の返済額は30万円強というものでした。

ぼくは『ごんべえの八百屋』の小野田君、滝沢さんと広報を担当しました。
かつて映画製作にたずさわっていた小野田君は、当時広まりつつあったビデオカメラを購入し、『百姓宣言(農場開設)』『地球の羊水(伊豆大島での塩づくり)』『旬を運ぶ青春(トラック八百屋)』『ウリ物語(あひるの家のリヤカー八百屋ウリちゃん)』など10本あまりを撮り、その年の2つのビデオフェスティバルで特別な賞をもらったりもしました。
この頃からメディアの取材も多くなり、NHK『明るい農村』、朝日ジャーナル『もうひとつの若者文化』、別冊宝島『街を耕す若者たち』、an‐an、私の部屋・・・・・・
ぼくは初めてテレビスタジオにいき、『ルックルックこんにちは』というワイドショーに出たりもしました。
「有機農業」「食の安全」「若者文化」「リヤカー八百屋」「街と村を結ぶ新しい流通」と多様な切り口があったことがメディアにとって取りあげやすかったのだと思います。

メディア効果は大きく、新しい八百屋志望者や百姓たちが訪れてくることも多くなりました。
「今、新幹線の中なんですけど、八百屋やらしてください」と電話してきたトヨタの工場労働者だった(辞めてきた)山縣さんにはあわてました。
「迎えに行くから、そこから動くな。ホームで待ってて。ところでどんな格好してんの、おれはね……」。 山縣さんはそれから1週間後、リヤカー八百屋として国分寺の街にくり出していきました。
大阪からは別冊宝島を小脇に抱え、ウォークマンでジャズを聴きながら、巨人(190cm越え)関君がコテコテの関西弁で「大阪でもこないな八百屋やりたいんやけど、どないしたらいいです」とやってきたりもしました。
国産小麦・天然酵母のパン屋や味噌屋もコンニャク屋もやってきました。プロジェクト・イシの活動は、確実に拡がりとつながりをつくり出していきました。
ただ、ぼくが荒田君のイシ提案に共感したのは、「今、八百屋もJACも大変じゃない。でも、もっと先になってもうかるようになったら、共同のテーブルをつくろうなんて思わなくなるよ。貧しさは共有できても豊かさは共有できないってことだよね。だから、無理しても今つくらなきゃっておれは思うんだ」という言葉だった。

中央高速道路分倍河原高架下の流通センターJAC(ジャパン・アグリカルチャー・コミュニティー)の倉庫には、廃車になったバスがありました。座席を取り払って、台所・事務所・宿泊場所として利用していました。
JACスタッフ4人(20才代)は茨城・山梨・長野は勿論のこと、遠くは愛知まで集荷のトラックを走らせていました。1年間の走行距離は10万kmを超えていました。
月売上げが500万円強で粗利益は60万円位で、車両費などを除くとスタッフの取り分は無く、時間も金もないのでバスで寝泊まりしている現状でした。
ぼくの家に飯を食いにきてお風呂に入っていくと、湯船は泥でドロドロになっていました。屋根の下で暮らしているのが申し訳ない気がする位でした。
そんな状況の中で「もっと跳ぼう!」という提案は、「八百屋をやりたい訳ではない」「仲間がほしい訳ではない」「何をしたいのか見つからない」などと、グズグズしていたぼくの横っ面を張りとばしたのです。
プロジェクトの一端を担わせてもらって、けっして一人では得ることの出来ない経験をさせてもらいました。それは心湧きたつものでした。
着地点がどこなのかわからないのですが、浮かび上がった飛行船に乗ってもっと空高く遠くまで飛んでいければ、見える景色も変わっていくだろう、そう思ったものでした。

『あひるの家の冒険物語』第4話 突き出されたトコロテンの行く先は……

1978年春3月仁君が、その10日後に武重君が訪ねてきました。
髪を後ろで束ねて顎鬚をのばした仁君は、山梨韮崎の自給自足を営む農場からやって来ました。
武重君はこれまで定職についたことがなく、趣味の写真と不用品修理でいくばくかのお金を稼いで生活していたそうです。この日もカメラ携えてやって来ました。
国立と周辺エリアを分けて、3軒のリヤカー八百屋がはじまったのです。ぼくには「仲間がふえた!」という喜びよりも、「エーッ!どうして?」という戸惑いの方が大きかったのです。
2人はよく夜訪ねてきて、ぼくの子供たちと遊んでくれたりしながら、「里芋の傷みはどうしたらわかるんだろうか?」とか「サツマ芋がボソッと腐るんだけど」「風にあたってヨレヨレのほうれん草は、水をふった方がいいんだろうか?」「100g35円で470gあった時、どうやって計算してる?」「卵の殻、割れやすいよね」など、今日お客さんに言われたことなど話しは尽きないのです。たった半年なのに、彼等にとってぼくは八百屋の先達ということになる訳です。
そして8月、「役所辞めてきちゃった。八百屋やらして」と清々しい笑顔で、元職場の同僚だった藤井愛子さんが増田書店の前にあらわれたのです。
元職場のサークルではフェミニズムをテーマに活動し、本屋さんの前によく顔を出してくれていました。それでも、「辞めてくる。八百屋をやる」とは思いもしませんでした。
仁君のパートナーで、自給自足農場に出入りしたり八百屋を手伝ったりしていたむっちゃんから、八百屋をやりたい旨のアピールもありました。
5人で話し合いをもったのです。
「フラットのエリアを考えると、5軒のリヤカー八百屋がやっていくのは難しいよなあ」
「リヤカーの基地があるといいね。荷物のやりとりもできるし」
「八百屋だけじゃなくて、ふらっと人が立ち寄ってお茶飲んでいく場があるといいね」
「そうそう、元気のでる情報交差点みたいなスペース」
ということで、藤井さんとぼくの退職金で持てるお店を探すことになりました。「1年間やって、9月4日に八百屋をやめる」という、ぼくの秘かな決意を言い出すことができませんでした。
10月、国立西(駅から15分)の富士見通り沿いに、7坪の縦長の店をオープンさせたのです。
店の看板は、友人で画家の清重君(いもむしころう)が、「1週間分の食材提供」とひきかえに描いてくれました。濃いグリーンの下地に、大根と人参を掲げたあひるがユーモラスに描かれています。
●スタッフ:5人 30才1人 20才半ば3人 20才1人
●八百屋暦:1年1ヶ月1人 7ヶ月2人 0ヶ月2人
●販売形態:店舗(無休) 軽トラック リヤカー2台
●運営:合議制
●給与:一人一律7万円
店がオープンしてからもしばらくはリヤカー八百屋をつづけていたのですが、リヤカーで買っていたお客さんで店まで買いに来られた方は1割もいませんでした。
思うのです。
「ほとんどのお客さんは“有機無農薬の食品”が欲しかったという訳ではないんだ。じゃあ、あの熱い共感、共有のようなものは何だったんだろう?」
以降、「リヤカー八百屋のような店になりたい」というのがテーマとなります。
そんな目算外れも、立地もあったり不慣れもあり、店はあんまりというか相当売れませんでした。来客数3人という日もありました。
「待っていてもしょうがない」ということで、交替しながらリヤカーに野菜を積んで、旭通りバス停前の駐車場、大学通り緑地帯、増田書店前、富士見台第一団地などで宣伝をかねて販売したりもしました。
朝リヤカーで出発する時より、帰って来た時の荷が多いという武重君は、壊れた自転車や弦の切れたギターや、使わなくなった冷蔵庫をお客さんにもらってきたり、拾ってきて修理しクリーニングして一緒に売ったりもしていました。
店にはお客さんはあんまり来なかったけど、店内の1畳の畳スペースは“旅人たちや国立・国分寺の知り合いたちのたまり場”にもなっていたので、にぎやかな笑い声であふれていました。
空気が澱みはじめていました。
むっちゃんや藤井さんは勿論のこと、仁君や武重君そしてなによりぼく自身が、“澱み”をコントロールする気構えがありませんでした。
「店を持ちたかった」訳でも、「仲間がほしかった」訳でもなく、更に「八百屋をやりたい」訳でもないぼくには、踏みこんで向かい合ってゆく情念のようなものがなかったのだと思います。
音がすれど姿のみえない昼の花火のように、音がする度に顔をあげて、少しワクワクしながらながめるのだけど、何も見えないというもどかしさが続いた1年でした。

―訂正―

始めるにあたって「時系列と名称が苦手」とお知らせしましたが、さっそく間違えました。
リヤカー八百屋のスタートを1978年と記しましたが、1977年9月5日の誤りでした。古いメモが見つかったり、学生の頃から指折り数えてみて判明しました。
ずーっとそう思っていたので、『あひるの家の冒険物語』を書き始めた最大の収穫を得たような気がします。
あと、人名がよくでてきますが、今もあの頃も本名を知らなかった人がたくさんいたことを思い出します。通称名で記していきます。

『あひるの家の冒険物語』 第3話  全ての道はリヤカーに通じる

ポスティングした3000枚のチラシに30件余りの問い合わせがありました。
中区1・2丁目を月・木、東区1・2丁目を火・金、東区3・4丁目と府中北山町を水・土と、3コースに分けてみました。
朝、子供たちを保育園に送っていって、洗濯物を干したりしていると、9時半位に野菜が届けられます。
野菜の多くは茨城県玉造町や北浦町の数軒の農家がメインで、ほうれん草や小松菜は新聞紙でくるんで稲わらで結んでありました。
お米は30kg袋、味噌は5kg袋、卵は10kg箱で、加工品は1.8ℓ瓶の醤油・酢・ソースで、あとベニバナ油・天塩・お茶でした。
前日の野菜の手入れをしながら積み込みの開始です。気分を奮いたたせるため、大音量でレコードをかけます。
井上陽水の『氷の世界』、吉田拓郎の『落陽』、岡林信康の『わたしたちの望むもの』、ホルストの『惑星』、ベートーベンの『英雄』などをよくかけていましたが、バッハとモーツァルトはダメでした。
積み終わるとコーヒーをいれ、庭先に干してある赤・黄・緑・オレンジ・白などのタオルから「今日はアカだ!」とか言って頭にかぶります。
10時半、出発です。家の路地を出ると走りはじめるのです。一軒寄ってまた次の一軒まで走ります。その間「ヤオヤ~、ムノーヤクノヤオヤ~!」と声を張りあげつづけるのです。
ぼくが走った理由は、霜田君のように「体を鍛える。街にくり出すパフォーマンス」ではなく、知り合いと目を合わせたくなかったのと、「息せききってお客さんのところに駆けこんで、その勢いで売る」しかなかったからです。
それでも「本当に無農薬なの?」「まっすぐなキュウリはないの?」「このトマト真っ赤じゃない。熟れすぎてんじゃない?」「どうしてこんなことしてんの?」「エライわねえ」などの問いにこたえられず、「この大根辛い?」ときかれ、辛いと買ってくれるのかと思って「ウン、辛いよ」と言ったら「辛けりゃいらない」と言われたり、「目方?メカタはタカメよね」と去っていくのを「なるほどなあ、いいこと言うなあ」と感心したり、勢いではどうにもならないことばかりでした。
そんな中、雨の中向うからやってきた上品な御夫婦が「あなた何やってんの?」と声をかけてくれ、「あの角を曲がったところだから、今度寄りなさい」と言ってくれたり、マンションの管理人さんが館内放送を使って案内してくれ、エントランススペースを使わせてくれたり、老夫婦が買う物がないのにお米を30kg買ってくれたり、「寒かったろう。家に入って休んでいけよ」と言われて上がらせてもらうとお酒と刺身が食卓に並べられていたり、「あらあら、汗だらけじゃない。シャワー浴びていったら」と魅惑的なお誘いがあったり……。
それでも毎夜眠りにつく時、「明日目が覚めたら嘘だったということにならないだろうか」と思っていました。
3ヶ月が過ぎた12月の半ば、コースを回りいつものように大学通り増田書店の前で野菜を並べていました。よく元職場の同僚や後輩達が勤め帰りに顔を見せるのですが、今日は居ないようです。吹き抜ける風に道行く人たちは足早に通りすぎていきました。
Tシャツにヤッケ、長靴にジーパンのぼくは、駆け込んできた火照りがまだ残っていました。路肩に腰かけながら立ちどまる人に売りながら、本屋さんの灯りをながめていました。何人もの人が足早に店内に入り、何人もの人が襟をかきあわせながら出ていきました。
風も強くなり通りかかる人もまばらになってきたのでリヤカーに野菜を積み込んでいる時、ふっと「そうか~。おれはもうこっち側にいるんだなあ」と思ったのです。
その気付きは家に向っている間もどんどん広がり、体や心のすみずみまでしみこんでいくようでした。
カラカラとリヤカーは快いリズムを刻んでいました。

次の日からぼくはお客さんに「実は……」と言いはじめたのです。
「実は、有機農業も無農薬も添加物も、八百屋という商売も関心がないんです……。ただ、時間通りに来ることだけは約束します」
お客さんはあきれたり苦笑いを浮かべたり、それでも「あんたが持って来るトマトおいしいわよね」とか、「そうだと思った。だってキヨツケ!しないと買えない感じだったもの」とか、「この里芋、揚げるとおいしいわよね」とサポートしてくれるお客さんもいました。ぼくの出来ることは、街の時計屋さんになることと、リヤカーの走りに磨きをかけることです。
じゃが芋・玉ねぎ・人参各々5kg、大根10本で15kg、キャベツ10kg、みかん10kg、白菜・りんご・トマト・キュウリ・卵・醤油……150kg~200kgの品物を載せるのです。
5cmの段差を乗り越えるには、上り坂はどの辺りから助走をつければいいか、コーナーをスピードをおとさずに曲がるには、停まるには、そして荷物が落っこちない積み方は……。次々と課題がもちあがってきます。
「実は……」からしばらくすると、急に売れはじめたのです。ポイントに集まって来るお客さんもふえ、お客さん同士の話しも弾み、笑い声が弾けます。ぼくはそばでヘラヘラしながら量ったり売ったりしていました。
その頃から人伝にきいてきたリヤカー八百屋志願者がひとり、またひとりとやって来て、併走するという事がおこるのです。
世田谷で『ごんべえのお宿』という保育所をやっている小野田君と滝川さんが併走し、「こんなに売れるんだ」と感心し、「子供を育てることと食べること」ということで、『ごんべえの
八百屋』と『もんぺの八百屋』という屋号で2軒のリヤカー八百屋を4人ではじめたのでした。
国立でも仁君と武重君の2人がやってきて八百屋をはじめました。
農家の納屋に使わなくなってほってあったリヤカーをもらってきて、各人デコレーションすれば完成です。
横笛を吹きながら、ギターをかきならしながら、紙芝居をやりながら、飲み屋をやりながら、昼間は……。
リヤカー八百屋は始めるのあたっても始めてからも、ほとんどお金はかかりません。リヤカーはタダだし、人力ですからランニングコストもかかりません。自営業なので働き方や売り上げの制約がありません。「ガンバッテ!」などと、お客さんから評価されることもあります。
そして何より八百屋なので食べられるのです。
たった8ヶ月余りで13軒15人のリヤカー八百屋が誕生し、全員が20才代でした。

昼御飯を食べる間もなくなったぼくは、保育園のお迎え時間ギリギリにリヤカーで駆けこむのです。雨の日は全身ビショ濡れで、暑い日は真っ赤な顔で。
子供たちは友達に「おまえんちリヤカーある?乗せてあげようか」と自慢気にリヤカーに乗りこみます。友達一人一人を家まで送っていって、家に帰ってある野菜で夕食の準備です。夕食の支度をしながら、子供たちは今日保育園であったこと、ぼくは今日八百屋であったことを喋るのです。
休みの日に子供たちと歩いてみると、ぼくが一日虫のように這いずりまわっているエリアは、直線距離で5分もかからないところでした。
週末、今週分の支払いのため、1週間分の売り上げを数えるのです。缶に入ったコインを机の上にばらまいて、子供たちと1枚2枚3枚と積み上げていきます。支払い分を除いたこの山が、1週間分の稼ぎなのです。その額は、勤め人をやっていた時を上回ることも多くなったのです。
1年が1日のように過ごしてきたぼくにとって、リヤカー八百屋の日々は1日が1年のようでした。
胃薬が手放せなかったぼくはご飯を3杯も食べ、風邪をひくこともなくなりました。マイナス要素と思っていたもののひとつひとつがプラス要素に転換しつつありました。
そしてぼくは、「全ての道はリヤカーに通じる」と呟くのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第2話 その前夜 ―PARTⅡ―

ほどなくしてぼくは役所勤めを辞めることになりました。
相談もかねてその旨久美さん(妻)に伝えると、「やってみたいんだから、やった方がいいよ。ただ、10万円家に入れてね」と言うだけで、家に持ち帰った保育園の事務仕事を続けていました。
退路は断たれたのです。
職場では上司に喜ばれ、同僚や後輩から何で?それで?と、たくさんの疑問符が投げかけられました。そのどれにも明確に答えることはできませんでした。
どうしたって、「コーヒーとタバコとコーラがあればいいや」というぼくが、「有機無農薬の八百屋を、それもリヤカーでやる」というのは、こじつけるのも無理なことでした。
八百屋をはじめるまで2ヶ月位の間があり、朝、3才と5才の子供たちを保育園に送って行って、迎えに行くまですることがありませんでした。
有機農業や安全安心の食べものに関する本を何冊か買ってはみたものの、表紙をながめているだけでした。やったのはヒゲをのばしたこと位です。
それでも、流通センターJACの吉川君や荒田君の集荷のトラックに乗って、茨城や長野の農家に連れてってもらい、話しをきいたり収穫を手伝ったりしたのですが、ただひたすら暑かったのと、おやつに出された手のひらいっぱいの白砂糖と、明け方戻った東京で食べた牛丼が旨かったことが印象に残ったことでした。

霜田君は中央線西荻窪の長本兄弟商会の店先を借りてリヤカー八百屋をやっていました。
1960年代後半~70年代前半にかけて、若者たちの先端的文化活動が2つありました。「自立と連帯」を掲げ学校や街頭をフィールドにした全共闘運動と、「Love&Peace」を掲げ離島や山村をフィールドにしたヒッピームーブメントです。
長本兄弟商会はヒッピームーブメントの人たちによってはじめられた八百屋です。
その仕入部門を担っていた3人が、「もっとたくさんの八百屋をつくらないとつぶれちゃうよ」と独立してはじめたのが流通センターJACで、ぼくが出会ったのは発足間もない頃でした。

暑い暑い夏の無為な日々は、ぼくから体力も気力も意地も見栄も奪いとりつつあり、子供たちを保育園に迎えに行く時間を心待ちにするようになりました。
霜田君は公演が忙しくなり、八百屋は休止していました。
外堀も内堀も埋められたぼくは、開き直るしかありません。
●力仕事をしたことがない。 ●安いだ高いだ金のことを言うのはカッコワルイ。 ●野菜はあんまり好きじゃない。  ●安全な食べ物に関心がない。 ●農業なんて知らないよ。 ●若いネエちゃんは好きだけど、おばちゃんはなあ…
全てはマイナス要素ばかりです。

それでもやらなくちゃいけないのですから、八百屋をはじめる理由(ワケ)を自分に言いきかせるしかないのです。
「29年間オレは、得意なこと好きなことだけをやってきて、そんな自分を変えたかったんだろ。苦手なことをやってみるというのもいいんじゃないか」
「社会が大きいこと、速いこと、システマティックに向かっていく中、その真逆のことをやるのは、もしかしたら新しい価値が見つけられるのじゃないだろうか」
「百姓が土を耕すように、街をリヤカーで地を這うことで翔べるんじゃないだろうか」
「アヒルも昔空を飛んでいたのに、人間に馴らされることで飛べなくなったという。オレたちも社会のシステムに馴らされることで翔べなくなっているんじゃないか」
「そうだ!空を飛び回る夢みて、八百屋の屋号はあひるの家としよう!」
元職場の同僚や後輩たちが、刷りあがった3000枚のチラシを手分けしてポスティングしてくれたり、野菜保管のための倉庫を作ってくれたり、半分に切った丸太に「あひるの家」と彫った看板をプレゼントしてくれました。
そして、秘かに「1978年9月5日からはじめて、翌年の9月4日にやめよう。修行のつもりで」と、固く決意したのでした。

新連載『あひるの家の冒険物語』 第1話 「その前夜 ―PARTⅠ―」

流通センターJACの吉川君が、4トンのトラックで改造リヤカーを運んできてくれたのは、夜も9時をまわった頃でした。
「ガンバッテ」と手をさしのべトラックに乗りこんだ後には、外灯に照らし出された二段の棚とワゴン形フレームがほどこされた物体が置かれていました。
それは、ぼくが頼んだリヤカーです。
「引いてみよう」と道路に乗り出しました。
持ち手のフレームは夏だというのにヒヤリと冷たく、空のリヤカーは思いの外軽く、車輪のカラカラ回る音が真夏の夜に響いていました。
道々の家には灯りがともり、出会う人もいません。
近所を3周した頃、運ぶ脚のこころもとなさに道端にしゃがみこんでしまいました。
フレームのよそよそしい冷たさや、カラカラと空回りする車輪の音や、重いのか軽いのかよくわからない実体感のないリヤカーや、行き交う人のいない暗い道や・・・・・・ なにより「明日という日が来る」ということに脅え、追い詰められていました。

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ぼくが「リヤカー八百屋になろう」と思ったきっかけはその半年前、リヤカー八百屋をやっていた舞踏家・霜田誠二君(24才)との出会いでした。
その頃ぼくは役所勤めをして6年が経ち、年齢も29才になっていました。
役所勤めをはじめた理由は「いちばんゆるそうな仕事」だったからで、勤めながらしたい仕事を見つけられればいい、というモラトリアムの感覚でした。
とても居心地の良い職場環境でしたが、30才が近づいてきたぼくは、「このままいくんだろうか?何がしたい?何ができる?」と焦りはじめていました。
そんな時、役所の先輩で同じサークルをやっていた松田さんが、『かっぱの家』という自主保育をやっているところの保父さんになるため退職していきました。
「辞めなくちゃ」焦りは募るばかりです。
『かっぱの家』のバザーを手伝いに行った時のことです。
玄関口でモンペ姿の青年が野菜を並べて売っていました。
品数も鮮度も見映えもパッとしない野菜なのに、たくさんの人が「シモちゃん」「セイちゃん」と声をかけ買っていきました。
坊主頭で陽に焼けた体躯は、草原を駆けるチーターをおもわせる敏捷さと色気を感じさせます。
お客さんがいなくなり、隣りに座って青年と話しをしました。
舞踏家で、身体を鍛える意味もあってリヤカー八百屋をやっているとのこと。「だから、ぼくにとって街は舞台で、お客さんは観客な訳ですよ。毎日、今日は街に右肩から入ろうか左肩にするのか考える訳です。じゃが芋や人参や大根を使って、今日はどんな身体表現ができるか勝負な訳です」と語る言葉は、はじめ「たかが八百屋で何を言ってんだろう」と思っていたのですが、段々魅きこまれていって、実は「感動してしまった」のです。
そして、最後に指をさして「狩野さんならできますよ」と言った言葉は、笑うセールスマンのモグロ!のような衝撃波を放ちました。
その後、勤めを休んで2回、リヤカー八百屋に伴走しました。
届いていた野菜をそのままリヤカーにのせ、出発と同時に走りはじめます。歩くということはないのです。
走りながら「ヤオヤ~ヤオヤ~」と声をあげつづけ、坂道も一気に駆けあがり、駆けおりるのです。まさに、街を疾走するのです。
近所の子供たちが出てきて、「ヤオヤ~ヤオヤ~」と叫びながらついてきます。
住宅街に着くと、向う三軒両隣から買い物カゴをさげたおばちゃんたちや、手をひかれたおばあちゃんたちが集まってきて、ダンボール箱を開けはじめる。霜田君は台量りの前に座って「にんじん85円、キュウリ120円・・・」と、持ってきた野菜の値段を言い、「735円です」とお金を受けとる。
お喋りをして、また次のスポットへ走る。5~6ヶ所のスポットをまわって一日が終る。
店先にリヤカーをおくと、お札だけポケットに入れ、「オレ、ひとおよぎしてくるんで、また」と高く手をあげ、人混みにまぎれていきました。
帰りの電車の中で、体も心も熱の坩堝に浸っているようでした。
「オレも恰好よくなりたい・・・・・・ オレもリヤカー八百屋をやってみようかな・・・・・・・」などと思っているうちに、快い疲れと電車の振動でまたたく間にまどろみにひきこまれていってしまったのでした。

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あひるの家をはじめて40年になります。もうそろそろ振り返ってもいいかなと思いました。
ただし、記されていることは記録ではなく記憶に因るものです。更に、名称(人名地名)、時系列(あれとこれとどっちが先?後?)がダメなので、関係した人たち誤っていたら「ボケッ!」とか言って笑い過ごしてください。

あひるの家代表 狩野 強

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